昭和女子大学_現代教育研究所_EduMate_Vol1
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する答申の中でした。そこではアクティブ・ラーニングとは「学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」学修であり、具体的には、「発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク」だとされていました。する訳ですが、ここにいくつか問題があるように私には思われます。第一に、何よりも小中高では既にこのような学習は普通に行われているということです。総合的な学習の時間でもこのようなことが求められ、今の教育課程で総合的な学習の時間が減らされた時も、(少なくとも理屈としては)「これからは教科の中でも探求的・問題解決的な学習を行う」とされていました。そのような経過を考える時、今改めてこれを持ち出してくる必要がどこにあるのかが明らかではありません。は(ほぼ)和製英語です。英語では普通、(能動的学修)それを今回高校以下に降ろそうと第二に、アクティブ・ラーニングすが、両者は異なった学習形態なのです。前者は、小学校を中心として、に教師が学習方法を工夫するものであり、あくまでも教師が設定した枠の中で子どもが協同して学ぶ形態です。それに対して後者は大学などを中心として、学習者自身が学ぶ目的・目標・方法を決めていくものです。両者は(最終的に目指すものは共通するにしても)、想定する学習者像(年齢や知識レベル)や教師の役割を異にしています。このような点についてもっと議論が必要でではないでしょうか。そして第三には、以上のような違いはあるにしても、では、「知識とは外から与えられるものではなく、共同作業の中で創り出すものである」という社会構成主義(sociaられていますが、答申ではそのような知識観は見られません。従来の教え込みは維持したままで、方法としてのアクティブ・ラーニングを提唱するのは、中途半端ではないでしょうか。(この点については例えば、リヒテルズ直子・苫野一徳著『公教育をイチから考えよう』〔日本評論社cooperationが可能となるようearnngやcoconstructionism)が取2016年〕が参考になります。私めざすものについて考えるヒントが得られます。) それにしても私が思うのは、「そもそも学習指導要領とは何なのか」ということを改めて議論すべきではないかということです。近年はその「法的基準性」について議論が行われなくなりましたが、決して決着がついた訳ではないでしょう。(例えば、「学テ裁判の最高裁判決が言う『大綱的基準』とは何か?」)学習指導要領で、「何を教えるのか」だけではなく「どのように教えるのか」「何ができるようになるのか」「どのようによりよい人生を送るか」を国が示すことに問題はないのでしょうか。国は、子ども(国民)に対して「このような力をつけなさい」「これができるようになりなさい」と要求する一方で、子どもの貧困やいじめといった問題については冷淡な姿勢を取っていると私は考えます。教育基本法が変わって20項目に及ぶ「教育の目標」が示されました。それから10年余り、教師も研究者も、教育行政が教育の目的や目標・内容・方法の細部にわたって指示をすることに「慣らされて」きているのではないでしょうか。これはある意味でかつての「期待される人間像」の再来ではないでしょうか?(また自治体がある授業法を取り入れて各学校で実施するということも行われていますが、これも現場から見れば、「特定の手法の強制」になるのではないでしょうか。)1947年に刊行された『学習指導要領一般編指導要領は「新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教科課程をどんなふうにして生かして行くかを教師自身が自分で研究して行く手びきとして書かれたものである。」と述べられていました。しかしその後は、「教育の現代化」「ゆとりと充実」「新しい学力観」「生きる力」等々のスローガンが掲げられ、現場はその対応に追われるという構図が見られました。今回もその新たな一ページと言えます。教師や学校現場の教育と研究の自由、親の教育の自由と権利、教師と親の自己選択と自主性を励ます行政のあり方などについて、今こそ議論をするべきではないかと考えます。               (試案)』には、学習llaborativecooperativeearnngやearnngと言われま lii   lii     ◇  ll ll laborativecooperativeearnngco11◇友野 清文(昭和女子大学総合教育センター教授)のて勉読強ん会だのの4です年が生、と教一育緒のにあ半り年方かやけ

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