昭和女子大学_現代教育研究所_EduMate_Vol1
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連した教科の免許状を申請により交付しました。そのために「新たに出来た社会科というのは人間関係に於ける児童生徒の経験を発展せしめ国の行動に望ましい変化を期待するのが目的だそうで、大変幅広い教科だから何とか食いつけるだろう」と安易な免許状申請も多く見られました。(註3)戦争の犠牲者が多いことと併せて教職追放令により絶対数が不足していました。その状況について「当時の校長の最初の仕事は、新しい中学校の理念をPRして先生を探すことであった。次の仕事は間借校舎から、 校地を捜し小さくとも独立校舎をもつことであった。」と述べています。   会 科 の 教員はいませんでした。私は(註4)7           す。また、講習に参加した教員は、主主義の在り方、カリキュラム、ガイダンス、等々の新語に圧倒され文部省編纂のコース を参考として勉強し、之に関する各種の講習会に出席する等、所謂頭の切替が何よりも要請され、都においても大々的に之に関する正規の講習会を開き全職員に受講証明書などが交付された。」と記録されていま教員の確保については、出征など東京都の状況について「研究は民オブ 「社会科なんていうのは全然名前を聞いたこともない教科を教えることになったのだが、何が何だかさっぱりわからないで、無我夢中でやったというのが本音でしょうね。」と述べています。(註5)このように教科の目標や内容が十分に理解されないまま免許状が交付され、授業が始まったことが推定できます。社会科発足当時の授業のようすを飯島平八郎氏は次のように述べています。「私が教員となったのは昭和24年です。赴任した最初の学校には、社国語と社会科の免許をもっていたので、若いこともあって、勉強をして社会科を担当するように命じられました。その時、嬉しかったのは、当時はコア・カリキュラムを行っておスタディり、社会科は花形の教科であったことです。その中で生産教育ということを盛んに行いました。例えば、リンゴが2個あるとしたら、まずどういう環境でリンゴが作られたかを学習するのが社会科です。その社会科の基礎の上に立って、数としてリンゴが2個出来たということを学ぶのが数学です。私が最初に習ったコア・カリキュラムの例です。教科書もよくわからないという実状がありました。またよく街頭録音(インタビュー)を行いました。例えば、生徒を上野に引率し、地方から出てきた方々に意見を聞き、まとめ、発表する勉強などをさせました。無我夢中で社会科に取り組みました。」(註6)調査や聞き取りなどの学習を通して得た資料等を生徒は話し合ってまとめ、発表内容を模造紙に書いて研究発表会に臨みました。そこで「模造紙学習」とも呼ばれました。教員の個々の研究実践と併せて、有志教員による「川口プラン」や「桜田プラン」などの研究活動が進められました。東京都中学校社会科教育研究会など自主的な研究会も県市等の単位で組織化されていきました。このような学習を生徒は歓迎しました。しかし、保護者からは「社会科というのは一体どういうことを教える学科ですか」との質問が、校長や担当教員に数多くなされる等、社会科が理解されにくかったことが推定されます。(註7)これら生徒の体験を重視する学習形態から「這いまわる社会科」と揶揄され、学力の定着への疑問が起き、昭和33年の学習指導要領改訂から「地理」、「歴史」、「政治・経済・一般社会」という系統的な社会科に変わっていきました。これからの社会科教育については、平成28年12月21日に中央教育審議会が答申した「幼稚園、小・中・高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(以下 指導要領の改正案(以下改正案)」について考えて行きます。平成26年11月の文部科学大臣の諮問に「アクティブ・ラーニング」という語が用いられ話題を呼びました。答申では「アクティブ・ラーニング」は知識の理解の質を高め資質・能力を育む「主体的・対話的で深い学び」と改められ、授業改善のポイントとされました。答申では学習指導要領を「学びの地図」と位置付けています。社会科については、幼児教育、小学校生活科・社会科、答申)」、平成29授業のようすこれからの社会科「年幼2稚月園14教日育に要文領部、科小学・省中が学校示学し習た

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